思春期と大人
文学は
- 若い頃は過大評価されやすく
- 大人になると過小評価されがち
文学には二つの能力がある。
- 一つは分かりやすい言葉を使って真実や視点を明らかにする能力
- もう一つはさまざまな程度の美を感情に基づいて直接的に創造する能力
思春期
思春期は感性が鋭く人生を体験したいという欲求が強く「経験や思考・精神の行き着く先」表面的なものであるがこの時期の文学の影響は間違いなく非常に強く受けやすい。
文学作品の広大な世界は個々の特定の状況に適合させることができる。
特定の文学作品を精神的なビーコンと生涯の愛と見なすことも出来る。
その時の自分にとても似ていて自分の気持ちをとても適切に表現。
自分を決心、背中を押してくれる要素になる。
大人
しかし大人になると世界は一転。
実生活の「悲しみとエクスタシー・退屈と興奮」は本の世界をはるかに上回ってしまう。
それがファンタジーでなくリアル小説ならなおさら。
実体験に勝るものなし。出来事としては物語よりはるかにスケールが小さくても。
さまざまな経験をした後、ほとんどの物語の世界はもう手が届くものがなかったけでなく本当に娯楽として読むものに過ぎなくなる。
あくまでも自分にとっては物語のような達成感や目標を持つのも難しい。
物語にあるようなものを得ることはもう無理だと。
もう理想を追う元気もなくなってくる。ややおおげさかもしれないが。
大人にとって古い文学作品とは必然的にギャップがある。
現代の文学作品は溢れ、自分にはまる作品を見つけるのも一苦労。
入れ替わりのスピードも激しく、ついていくのも苦労する。
文学の実質的な役割はなんなのか。
- 作者 — 自分が固く信じる道を伝え、客観的に自分自身の価値と評判を達成する。
- 読者 — 大衆の知識、教育を育む。それが「美的教育であれ・知識であれ・概念であれ」。
文学が知識、教育を育む点を達成できなかったりその点から逸脱したりした場合、
つまり「作者の道・方向・または程度」に問題がある場合、作者の文学は役に立たないということになる。
深いレベルでは特定の方向の文学は役に立たなかったけでなく、正しい道から逸脱する作用もある。
結局、秦の始皇帝が燃やしたか、孔子が削除したかのどちらかであり、どちらであっても今や誰も気にしない。
文学には2つの起源があると思う。
- 1つは純粋な文学である歌の本。万物の存在について一種の詠唱と修辞的な質問であり、人々への永遠の共感かもしれない。
- もう一つは万物の道を含む解釈の流れ。宇宙と人間の世界を理解しようとする万物への探求と問いかけ。
前者は憂鬱、後者は追及。
結局のところ文学は何を助けることができるのか?
現実から飛び出すような人は誰でも独自の志向を持っている。
最終的には文学がなくても人生について独自の理解と納得を得るだろうし。
ある程度の年齢になっても意欲がまるで衰えてなさそうな人は本当にすごい。
文学のかけがえのない基本的な価値はこの1つにつきると考える。
「快適さ」
文学は
- 創作されたときは作者の達成感、満足に過ぎない。
- 出版された後は読者を慰める心強い見方に。
無の苦しみから逃れられない私のような人間にとって文学は「肉体的・精神的」に弱ったときの慰め。
スピードについて行くのにはそろそろ厳しい年代。
何を書いてるのか良くわからなくなったが、過小評価しがちになるが大人になってもやっぱり必要だわ、文学と。慰められたい。